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つれづれなるままに引き出しを開けると、自分でも忘れていたものを思い出したり… ぴったりの処方箋が見つかったり…
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青い蜜柑

青い蜜柑が出回る季節になりました。
少し小ぶりで薄い皮がピンと張っており、剥くと独特の爽やかな香りが瞬時に立ち上ります。

私にとって青い蜜柑は、母方の祖父の思い出に直結します。祖父は私の小学校の運動会に、5年生まで毎年必ず来てくれました。私は運動嫌いで、運動会などちっとも楽しくなかったけれど、たしか3、4年生までは運動会のお昼は家族と一緒にお弁当を食べ、それだけは嬉しかった記憶があります。その後なぜか生徒は教室で家族と別れて食べなければいけなくなりましたが、あれは来られない家族もいるからという配慮だったのでしょうか。
祖父は運動会に必ず青い蜜柑と柿と栗の茹でたものを持ってきてくれました。祖父は兵庫県丹波地方の生まれで、丹波は栗の名産地です。柿はおそらく祖父の家の庭で採れたものだったでしょう。
せっかく見に来てくれても活躍もできず、徒競走はほぼビリだった私を、祖父はにこにこして見ていてくれました。そして、「頑張ったなあ。さあ食べ、さあ食べ」と青い蜜柑をむいてくれました。
そんな祖父はその後脳梗塞で倒れ、6年生の運動会を見に来ることはありませんでした。
母達の話と、私の記憶を合わせると、祖父は戦争で全てを失いながら、斬新なアイデアで新しい商売を立ち上げ、何でも自作してしまう器用な人でした。ユーモアがあり会話は常に冗談ばかり。音楽(流行歌)が好きで、そういえば家はいつもレコードがかかっていました。三味線なども嗜み、小唄を唄うような粋なところもありました。褌の愛用者でした。負けず嫌いで、自分の子供にも孫(私達)にも厳しいけれど、頑張って何かで結果を出したり、表彰されたりすると人一倍喜んでくれました。祖母にとっては(子供には計り知れないような)いろんな苦労があったようですが、私は祖父が大好きでした。
健康オタクでもあったのに、まだ若くして倒れ、体がいうことをきかなくなったことは祖父にとってどれだけ悔しかっただろうと考えます。それでも祖父が弱音を吐いた姿を見たことはありませんでした。

祖父は私が高校1年の秋に亡くなりました。
祖父と見に行った桜や牡丹、寒いのに母に内緒で買ってくれたアイスクリーム、母の留守に祖母と二人で家に来て作ってくれた甘酢玉葱、好物の実山椒の佃煮など、祖父に繋がる思い出のものは他にもありますが、やはり青い蜜柑が店頭に並び始めた時、そして青い蜜柑を口に入れた時、私は必ず祖父を思い出します。
そして思います。私に流れている4分の1は祖父の血なのだと。
今の私を見たら、祖父はこんな私に何と言ってくれるのでしょうか。




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