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つれづれなるままに引き出しを開けると、自分でも忘れていたものを思い出したり… ぴったりの処方箋が見つかったり…
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春爛漫

清水へ祇園をよぎる朧月夜 今宵逢ふ人みな美しき  与謝野晶子

一年で二番目に好きな季節がやってきました。ちょうどこの桜満開の頃から晩春の、まったりと爛熟した季節が大好きです。
先日TVで連続して平安神宮のしだれ桜が紹介されており、もう何年も見ていないことに気がついて、思い立って見てきました。相変わらず人が多くげんなりはしましたが、池の周りのしだれ桜は満開の枝を微風にゆらしながら水面に照り映えて、花弁ははらはらと舞い、「ああやっぱり桜はいいなあ、春はいいなあ」と日頃のあわただしさを忘れさせてくれた一日でした。
だいたいこのお花見の時期は季節は春というものの、寒の戻りだったり、雨が降ったりして寒くて優雅なお花見とは程遠い経験を何度もしており、またどこへ行っても人が多すぎることもあって、あまり「お花見」に出かける気は起らないのですが、それでもこうして満開の桜を見るとなんとも言えない幸せな、そして物悲しいような高揚した気持ちになります。それは桜が過ぎ去った日々を思い出させるからなのか、それとも世界一桜好きの民族の血が静かに騒ぐのでしょうか。とにかくこの時、この場所にいる人々はみな一様に花を愛で、散りゆく花を惜しむ、不思議な一体感でつながっているようでした。

高校の古文の授業で与謝蕪村の「春風馬堤曲」という詩(散文、漢文、俳句が混ざった文章)を習いました。なぜかこの詩が好きでした。特に後半にかけての盛り上がりと、人の俳句の引用で終わる最後の余韻は印象的でした。この季節になると必ず思い出すこの詩の良さが今頃になってわかってきたような気がします。
…(前部分省略)
故郷春深し行々(ゆきゆき)て又行々(ゆきゆく)
 楊柳
(やうりう)長堤道(みち)漸くくだれり
嬌首
(けうしゆ)はじめて見る故園の家黄昏(くわうこん)

 戸に倚
(よ)る白髮(はくはつ)の人弟(おとうと)を抱(いだ)き我を
 待
(まつ)
春又春
君不見
(みずや)古人太祇(たいぎ)
が句
  藪入の寢
(ぬ)るやひとりの親の側(そば)

この描写と今まさに爛漫の春の風景がオーバーラップして、美しさの真っ只中で何故だかわからないけど不意に悲しくなるような感情、いわゆる春愁をかきたてるのです。つくづく春は明るい憂いの季節だと思います。春愁といえば、音楽の授業で必ず習う「花」という歌も、あのどこまでも明るい曲調と流麗な七五調の歌詞の中に、ある種の感傷が隠れている気がしてならないのです。だからこそ好きなのかも知れませんが…。
ゆったり暮れゆく鴨川の風景は、桜、菜の花、雪柳、柳の新芽が織り交ざって、まさに春宵一刻値千金でした。
    平安神宮神苑にて





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